お茶の歴史

お茶の歴史

中国から日本へ

奈良~平安時代 (710-1192)

日本のお茶の始まりは、今から約1200年前の平安時代の初め。お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが日本でお茶を飲んだ最初の記述といわれています。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

 

お茶が庶民の味になる

鎌倉~南北朝時代 (1192-1392)

 普及したのは、鎌倉時代に入ってから。日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、二度、宋に渡って禅宗を学び、帰国の際にお茶を持ち帰ったのがきっかけです。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説きました。当時のお茶は抹茶に近く、茶せんで泡立てて飲んでいたようです。

江戸時代に煎茶が出回ると、庶民の口にも入るようになりました。華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。
鎌倉時代には、禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」が行われました。

 

茶道文化の形成

室町~安土桃山時代 (1336-1603)

足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工されました。

15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555)、千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。

 

日本のお茶が世界に進出

江戸時代 (1603-1868)

茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録からうかがえることができます。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったようです。

煎茶の祖と呼ばれる永谷宗円が1738年に生み出した『永谷式煎茶』は、それまでの中国式製法のお茶にはなかった鮮やかな色と甘味、香りで江戸市民を驚嘆させたといいます。宗円が生み出した製法は、「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。また、より高級な煎茶を開発しようと、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、1835年、山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により玉露の製法が生み出されたといいます。

1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、翌1859年、横浜、長崎、函館の開港を機に、日本茶181トンを輸出します。

明治維新後も、茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、明治20年(1887)まで輸出総額の15-20%を占めていました。
明治初期、士族授産事業などを契機に牧の原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。しかし、茶園を開拓した旧士族は次第に離散し、農民が茶園を引き継いでいきました。旧士族が去った理由としては、茶の輸出価格の大幅な低迷や、茶園の開拓に多額の費用がかかったことなどが挙げられます。

 

現代日本におけるお茶

和食人気と健康志向の高まりにより、日本茶が世界的なブームとなっています。輸出量はこの10年間で約3倍に増加し、令和元年には過去最高5,108トンもの日本茶が海を渡っていきました。